知楽で歩く


血吸川を歩く

岩屋物語(血吸川を歩く)
高松公民館のクラブ講座の「高松いきいきウォーク」の平成27年6月実施で血吸川を歩くことを契機に
血吸川沿いにまつわる鉄の歴史と穴観音・阿宗神社について少しまとめてみました。

■参考文献
 ・総社の地域誌「然(ぜん)」横田章善氏投稿記事、武田恭彰氏講演録
 ・「総社市史 近世資料編」「総社市史 通史編」
 ・「吉備地方の研究 藤井駿著」
 ・「平成十九年度特別展 吉備津神社 岡山県立博物館」
 ・「備中誌」
 ・「寺社天保録」
 ・「日本三代実録」


■コース案内

歩く範囲は、血吸川を基本にし、階田用水や桜川の一部になります。


【行き】
福崎河川敷 ->[階田用水]-> 高松田中橋(高松田中)-> [血吸川]-> 新血吸橋(西阿曽)->
血吸橋 -> 鬼ノ城ふれあい広場
🚾 -> ①新池 -> ②かむろ山麓(奥坂)-> 奥坂休憩所🚾 

【帰り】
奥坂休憩所🚾-> ③穴観音🚾-> ④阿宗神社🚾 -> [桜川]-> ⑤鋳物の灯籠(西阿曽)-> [桜川]-> [階田用水]

(補足)コースとしては、矢喰神社を出発点か終着点にすると高塚から阿弥陀原(奥坂休憩所)までの血吸川を歩くことができます。

さらに、阿弥陀原から岩屋(鬼ノ城の北側鳴谷)までとそこから重田池までが血吸川のフルコースになります。


①新池

随庵古墳考 2015年4月14日~2015年5月2日

血吸川を歩く 新池にて

 ここは、西阿曽と奥坂の境界です。鬼ノ城霊園から道沿いの集落の山側を境界として、阿宗神社の南側が境になります。

ちなみに阿宗神社は奥坂です。奥坂は鬼ノ城や岩屋、鬼ノ城ゴルフ倶楽部とこの池の下の北側全てが奥坂になります。

 今回はこの付近の地名(小字名)と、鬼ノ城霊園の奥の小山にあった「随庵古墳」を紹介をします。

 

 この池は新池です。水はご覧のとおり血吸川から入れています。

国際ゴルフ倶楽部の左手(南)にある池は地ノ子池(ジンノコイケと地元では発音しています)です。

そして、新池から地ノ子池にはパイプで揚水できるようになっています。これらの池水は阿曽地区に配水されます。

 道に沿った部落は「池の下」といいます。そこには「池田」という小字名があります。ちなみに、「池ノ下」は鬼ノ城の水城(みずき)ではないかということで一部調査されました。粗朶(そだ)を炭素14年代測定したところ、AD410、AD350-440、AD250-540で鬼ノ城築造の7世紀後半と時代が重なりませんでした。しかし、造山古墳、随庵古墳とは重なり、さらに関心は深まります。

 ちなみに記紀に名のある狭山池は7世紀前半です。

 阿宗神社と国際ゴルフ倶楽部のレストハウスとの間の奥は板畑(いたはた)といいます。「鬼城縁起」では、鬼神が立てた「板の旗」を地名の由来としています。 

 そろそろ本題の「随庵古墳」の話に入りたいと思います。
そこの廃屋をご覧ください。石碑があり中にはポンプのようなものも見えています。
 昭和33年末(1965年報告書)、阿曽地域の上水道を整備するために、ここに井戸を掘ってポンプで揚水し、近くの山に貯水施設をつくろうとしたところ、この随庵古墳が偶然に発見されたわけです。総社市が施工していたことも幸いしたかもしれません。
 倉敷考古館の間壁さん達も関わっていました。


 随庵古墳での出土した特徴的なもの2点(鍛造具と位至三公鏡)について紹介します。
 鍛造具は、小鍛冶に使用されるものです。


 報告書から抜粋します。
 鉄鉗(かなばし、別名:かなばさみ)、鉄鎚(かなつち)、鉄床(かなどこ)、砥石と不明鉄器(補足して「或は鑢(やすり)ではないかと思っているが・・・」とある)。
 古墳は、鎧の木芯鉄張から5世紀後葉とみなされました。造山古墳が少し前のほぼ5世紀、千引かなくろ谷遺跡(次に説明します)は半世紀経った6世紀後半になります。

 古墳から出土する鉄製品はあまり話題なりません。先に鍛造(小鍛治)があり次いで製鉄が始まるという大転換期がこの時代なのかもしれません。 

(注)展示・保管は、倉敷考古館と総社市埋蔵文化財学習の館(鉄甲と鎧)です。

■随庵古墳報告書(総社市教育委員会 1965年)より、要点のみ抜粋 
◯帆立貝式(竪穴式石室)古墳 長40m弱 後円部径30m強 高さは推定4m
◯葺石、埴輪は表面では全く認められず。
◯割竹形木棺、両端の平石の内面と上面に丹が付着し、床面には一部朱が認められた。 
◯中央石室の遺物(鉄関連)
・刀2、剣3、刀子7以上、鉾・石突2対、槍身2、鉾形鉄器1、尖頭鉄器2種4以上、鉄鏃広根3、鉄鏃細根(3束)約150、鉇7、鏨3、錐2種9以上、鋸1、楔形鉄器1、斧5、鎌2、刀子1、やす大5以上、やす小3以上、やす3本組、短甲(頸甲・肩甲共)1、冑1、轡1、鎧1対、鞍断片、木棺残穴とその鎹(かすがい)
鍛冶具
・鉄鉗1、鉄鎚1、鉄床1、砥石1、不明鉄器1
◯粘土床の遺物(鉄関連)
・剣1、刀子4、鉄斧1、手鎌2、不明鉄1
◯むすび(特徴)
5世紀後葉 鎧(木芯鉄張)、工具、鍛造具類、砥石等多くの遺物により。
位至三公鏡、有孔円板

■位至三公鏡
 「位至三公」(位は三公(最高の位の三つの官職)に至る)という銘のある鏡です。
男性が出世を願う意を込めた銘文であると考えられています。

 位至三公鏡の盛行は、同時に出土した墓誌から、ほぼ西晋時代(265~316)であったことがわかる。中国ではおもに黄河流域(洛陽(東都)西安(西都))に分布の中心がある。 日本では、北九州に分布の中心があり、4世紀末から5世紀後半の古墳から発見されている。奈良からは出土していない。昨年、神奈川県(戸田小柳遺跡)で発見された。北九州の影響を示唆される造山古墳と年代が百年単位で重なることも関心事である。また、船形石棺を埋葬する古墳から発見されることが極めて多いようです。(海人=倭?)


②かむろ山麓

 手前はキャベツ畑です。その向こうにかむろ山が見えます。

その右手の谷筋が千引カナクロ谷になります。

 今は鬼ノ城ゴルフ倶楽部の所有地のため進入できません。

ゴルフ倶楽部ができる前は、この谷筋に千引地区がありました。

そして、備前との境は六道峠と呼ばれていました。

 

そこにあった地蔵は、千引カナクロ谷の入り口に移転されています。

 

吉備と鉄(奥坂製鉄遺跡考) 2015年4月29日ー2015年5月2日

血吸川を歩く かむろ(冠)山麓にて

 

 この付近一帯が奥坂遺跡群と呼ばれているようで、横穴式古墳群(穴観音古墳群、阿弥陀原古墳群、かむろ古墳群)があり、阿宗神社や鬼ノ城ゴルフ場の山塊にも、多くの横穴式古墳があります。

 さらに、製鉄遺跡もあります。全国的にも最古のものとして、千引カナクロ谷遺跡があります。鬼ノ城ゴルフ倶楽部を開発するために平成2年に発掘調査が行われました。

 ここでは、4基の製鉄炉と「八つ目うなぎ」と呼ばれる炭窯が3基です。原料は近世に盛んだった「たたら製鉄」の砂鉄とは異なり鉄鉱石(磁鉄鉱)も使われたようです。

 古代のたたらを再現するため「鬼ノ城たたら倶楽部」も鉄鉱石を原料にしています。

 元総社市教育委員会の武田さんによると、柳井原周辺では磁鉄鉱があるようです。

 総社市域は県内でも多くの製鉄遺跡があり、特に久代地区では板井砂奥遺跡他5遺跡で、7世紀を中心とする製鉄炉81基、製炭窯16基が調査されています。(地図参照)

 

 古代から現代に到る鉄つくりについて、原料は何か、燃料はなにか、中間製品か最終製品かにより、鉄の特性による業態(遺跡を特徴つけるもの)が決まるように思います。

 従って、その業態を認識することで、さらに鉄の理解が深まるのではないでしょうか。

1.何をつくっていたのか(鉧、銑、鎌や鍬、鎧兜や鏃、砂鉄、炭・・・)、使用目的が重要(石棺・勾玉つくりも、貨幣の代用も)

2.原料は何か(鉄鉱石、鉄鋌、鉧や銑、製炭木材・・・)、舶載品・再生品

3.時代は(5・6・7世紀、中世、近世・・・)、さらに弥生時代も

4.技術は何か(直接製鉄、精錬製鉄、大鍛冶・小鍛治、鍛造、鋳造・・・・) 、青銅の鋳造との違い

5.鉄の特性は(純鉄の融点、鋳物の融点、鍛造時の温度、還元製鉄の温度・・・・・)

■参考文献
1.機関紙「然」2004.春 Vol.04 
 特集 「総社市内の製鉄遺跡」-考古学の業界で鉄を学ぶならまず総社へ- 武田恭彰 
2.奥坂遺跡群 : 鬼ノ城ゴルフ倶楽部造成に伴う発掘調査
 (総社市埋蔵文化財発掘調査報告 / 総社市教育委員会編, 15)総社市教育委員会, 1999.3 

 本報告書の製鉄遺跡のまとめのところに、「県内に於ける製鉄の開始時期については、古墳から出土した精錬鉄滓から5世紀中頃が有力視されている。また、奥坂地区の随庵古墳から出土した鍛冶道具や、窪木薬師遺跡から出土した鉄鋌からも、朝鮮半島から導入された新技術の定着により専業鍛冶集団が5世紀代に成立したことが明らかになっている。」とあります。

■周辺の鉄関連遺跡について
 最初に発掘された『随庵古墳』以降、発見された製鉄関連遺跡の各報告書から発掘順に引用してみる。
 
◯昭和60年(1987年報告書)には、
『樋本遺跡』が発掘され、平安末・鎌倉期から室町時代初頭まで継続して活動した鍛冶集団の存在が考えられている。
◯昭和63年(1999年報告書『奥坂製鉄遺跡』)から発掘が始まった、6世紀後半から8世紀前半にかけての
『千引カナクロ谷遺跡』とその周辺では、遺構の時期的変遷の解明という点で非常に好資料とされている。
(注)上記発掘直前に発掘された『板井砂奥製鉄遺跡』他5遺跡では、7世紀を中心にした製鉄炉や製炭窯が調査されている。本遺跡については、割愛した。
◯平成2年(1993年報告書)になって
『窪木・薬師遺跡』が発掘され、さらなる鉄関連遺跡・遺物が発見されている。そして、当該地域での鉄器製作の開始は明らかに5世紀前半まで遡り得ること、さらに、鉄器製作の事業化の兆しが6世紀前葉ないし中葉には認められ、さらに6世紀後葉には確立していたと見られた。

■編年でまとめると
・5世紀前半から6世紀後葉の
窪木・薬師遺跡:鍛冶遺跡
・5世紀後葉の
随庵古墳:鍛冶具を伴う古墳
・6世紀後半から8世紀前半の
奥坂製鉄遺跡:製鉄遺跡
・平安末(12世紀末)から室町初頭(14世紀末)の
樋本遺跡:鍛冶遺跡

 時代は異なるが、地理的には最も北の奥坂製鉄遺跡から最も西南の樋本遺跡までは、約10Kmである。中間の窪木・薬師遺跡までは、約6Km、随庵古墳までは約1Kmとなっている。しかも、随庵古墳の跡地に行ってみて分ったことだが、そこから総社平野の中心部をよく見渡せ、昭和初期まで鋳物師集団の居た阿曽はすぐ眼下に一望できるところなのである。(今は雑木に遮られている。)さらに、総社平野は旧河川では高梁川や足守川に直結しており、瀬戸内海へと開かれていたのであろう。


③穴観音

穴観音考 2015年4月20日ー2015年4月20日

血吸川を歩く 穴観音にて

 穴観音はご覧のとおり横穴式古墳を転用した社になっています。備中誌奥坂村の項の「穴観音」には、「岩屋山観音院構之・・・・堂の本尊馬頭観音也」とあります。この記述で、岩屋の観音院が管理し、本尊は馬頭観音であると判ります。では、穴の奥正面の岩に彫られた像は本尊の馬頭観音なのでしょうか。
 寺社天保録では、「奥の正面に観音の尊容を彫付たり」とあり、馬頭観音とみなされていたのかもしれません。余談ですが、「文明十一年より天保七年まで三百五十八年になる」とあり、この記録は天保7年(1837)のものと思われます。さらに、「穴の口両脇厨子に[東千手観音・西馬頭観音]安置」とあり、奥の正面岩のことではないようにも思えます
 郷土史家の永山卯三郎氏は、「吉備郡史上巻」のP443の絵図に「馬頭観音ヲ刻ス」と記載し、郷土史の「阿曽村」の穴観音の項には、「奥坂の一古墳の鏡石に観音像が刻まれ本尊とされて居る。」とあります。総社市史の通史編には、P368「古墳玄室の正面にある鏡石には馬頭観音が線刻されている。」
ここまでは、「馬頭観音」が通説となっていました。

 しかし、平成14年になって高知市の方が拓本をとるため調査された結果、「弁才天十五童子像」であることを示された。目視では確認しがたい、十五童子の姿がデジカメで撮影して明暗輝度調整するとかなりはっきり判ります。堂内に掲載されている写真がその拓本の写しになります。さらに、昨年(2014年)早春、県博の仏教美術が専門の西田さんの調査結果も、弁才天十五童子であり、時代は早くても江戸初期までとのことでした。
 かくして、「弁財天十五童子」となりましたが、時代特定が待ち望まれます。

左が全体像で右が像の足元の十五童子を拡大したものです。

 参考 室町時代の「弁才天十五童子像」を東京国立博物館の画像検索で見ることができます。
    坐像です。(穴観音は立像です。他にあまり例がありません。)
    http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0018069

 入口に「岩屋三十三観音」の地図、つづいて「観音めぐりみち」と「岩屋山三十三観音奥坂霊場参拝口」の看板があります。
 まず、「
岩屋三十三観音」についてですが、鳥羽久治が明和三丙戊(1766年)季春上浣した「岩屋物語(下)」によれば、『寶暦六甲子(1755)年信心のともがら人々にすすめて三十三所観世音の尊像石佛を安置し奉り』とあり、いつ安置したかが判ります。
 当初は岩屋観音院(一番)から鬼ノ城東の大2展望台から南門、西門からビジターセンター西、そして犬墓山、馬頭観音を経て、鬼の差上げ岩までに三十三体が安置されていました(入口の地図参照)。現在はその内の17体がこの穴観音周辺にあります。境内に記念碑もありますが、大正13年に、17体の観音石像を背負って、穴観音周辺に安置したのです。緊迫した事情があったのでしょうが、経済的裏付けと宗教的な熱意と行動力には村民の底力を感じます。
 現在も岩屋・鬼ノ城周辺と穴観音周辺に一つも欠けること無く、33体全部が揃っています。 貴重な郷土財産です。
 「観音めぐりみち」には、全ては揃っていませんが八十八ヶ所霊場もあります。
 境内には文英石仏が一体、境内周辺には、横穴式古墳が数個あります。


④阿宗神社

阿宗神社考 2015年4月18日ー2015年4月20日 

血吸川を歩く 阿宗神社にて

 阿宗神社(あそうじんじゃ)は、岡山県神社庁のHPによると、通称名:八幡様、旧社格:村社 とあり、御祭神:(記載なし)です。鎮座地は総社市奥坂96になっています。
 寺社天保録(天保:1830-1844)によると、「産土社[八幡宮・御崎宮]両社 社僧 延寿院 神主:貝原相模 禰宜:服部惣助 御崎 同 小倉刑部」とあります。また、奥坂と西阿曽・東阿曽の産神で九月十九日が祭日です。なお、御崎は三代実録に記載のある宮原神であるとも書かれています。(三代実録に貞観6年(864)備中国
正六位上宮原神とある。富士山大噴火と重なる。)

 八幡本社と御崎社としてそれぞれ大きさと「こハふき・縁欄干附」と書かれていますので、個別の建物だったこともわかります。さらに興味深いことは、庄屋が 彦次郎と治郎兵衛の2名になっています。同録の近隣の村の庄屋は、全て1名です。当時、家数47軒、170人の村でした。
(平成27年 3月31日現在の総社市住民記録によれば世帯総数は84世帯、人数は377人です。)
 ネット情報(服部家文書よりとある)に、奥坂村内折合いが悪く、庄屋が2人だったことがあるとあり、この時代のことのようです。寺社天保録では天保7年、服部文書の「奥坂村書上帳控」では、天保9年で、2人の庄屋は同じです。

 備中誌(幕末1860頃?)奥坂村の項には、「従五位上宮原神社(八幡山の隅に有祭礼九月十八日、十九日) 伝に云此神は元東阿曽宮原と云所に在りしを遷せりとぞ・・・」とあります。いつ頃かこの地に遷されたようです。村の口伝では、木下公が巡村のおり旧地の宮原宮前でたびたび落馬するため、移転したそうです。禰宜久五郎とあります。
 同じ項に、八幡大菩薩として、「石清水勧請の故菩薩と申す古しへは内陣に阿弥陀の木像有しを文政の頃にや神人之を忌みて新作の像を安置す」とあり、神社なのに仏像が祀られていたようで、興味深いことです。ちなみに、社僧は岩屋山延寿院で神人は貝原和泉、禰宜は服部園右衛門とあります。(注)文政は、1818-1830。「八幡」は難題です。
 現在は同じ棟の本殿になっていますが、18世紀中頃には、別棟でそれぞれ八幡様、宮原神社があり、禰宜もそれぞれにいたようです。社僧はいずれも延寿院です。

■阿曽の鋳物
1.梵鐘(鐘に以下のように縦書で刻まれている)
「元ノ鐘ハ宝永7年三月 十日氏子ニ依つテ奉献 サレタモノデアルガ 昭和十七年十一月一日
 太平洋戦争ノタメ供出 シタノデコノ鐘ヲ再献」(注)宝永7年(1710)
「共和鋳造株式会社作 昭和二十九年五月吉祥日」

2.水桶
・向かって左:「奉献者 共和鋳造・三和鋳造」
・向かって右:「昭和三十三年一月吉日 共和鋳造株式会社 謹製」


⑤鋳物の燈籠

阿曽の鋳物考 2015年4月14日~2015年5月2日

血吸川を歩く 鋳物灯籠にて

 阿曽の鋳物といえば、近世に全盛期を迎え、昭和の初めまで、多くの金屋(かなや)と呼ばれた鋳物師(いもじ)集団がありました。その殆んどが、この周辺にあったわけです。
 さて、このお話をする前に、参考にさせていただいた著者を紹介します。
横田章善さんです。地元の方で、郷土史について詳しく、地元機関紙「然」に阿曽の鋳物や随庵古墳について投稿されています。残念なことに昨年、病気で亡くなれました。
 話は、その「然」(2004年秋 Vol.05) に投稿された「特集 阿曽の鋳物」とその中で引用されている藤井駿先生の「吉備地方史の研究」の「吉備津神社の釜鳴神事と鋳物師の座」等を参照しています。

■西阿曽にある鋳物燈籠(後ろに刻まれた元号は判読できない。)

「然」(2004年秋 Vol.05) に投稿された「特集 阿曽の鋳物」によれば、「明治十八年と刻まれています」とあります。

よく似た鋳物灯籠が吉備津神社にも在ったようです(後述)が、戦時供出で当時からなくなっています。この阿曽の鋳物灯籠は供出を免れたのでしょうか。経緯が知りたいものです。

●阿曽の鋳物の始まりは
 「吉備地方史の研究」によると、備前の国の一宮、吉備津彦神社所蔵の「一宮社法」康永元年(1342)の記録に、「・・・あぞのかなや村よりたたら役、かまやくとて・・・」とあり、南北朝の頃既に、・・・毎年、牛鍬・五徳・歯釜を貢献していたようで、その関係と時代が最初に記録されているようです。もちろん、鋳物製作はこれ以前からも行われていたことは容易に想像できます。
 興味深いことに、昭和60年の総社南高校建設時の発掘調査で、樋本遺跡といいますが、14世紀中頃の鍛冶炉を伴う遺跡群が発見されています。炉跡や羽口、大量の鉄滓(精錬鍛冶、鍛錬鍛冶)ですが、最終製品は報告されていません。
同時期に阿曽では鋳造による鋳物師集団が三輪では大鍛冶小鍛冶の鍛冶集団が活動していたことになります。いずれも、さらに時代は遡ることが推定されます。

●吉備津神社との関連は 
 「吉備地方史の研究」によると、「阿曽の鋳物師と吉備津宮との関係を示す最初のものは、現に、同神社に所蔵する永正十七年(1520)の刻銘のある梵鐘で、・・・」銘文に「大工 林 但馬守藤原家朝」とある。「大工」の「林」から阿曽の金屋の多くは林姓であるためであろう。
 同じく、「吉備津神社文書」の大永五年(1525)の「社領坪付」に、「あそのいもし中より、五升なへ毎年公事有也、・・・・」すなわち室町の末頃、阿曽の鋳物師は毎年の公事として五升鍋を吉備津宮に貢納した事がわかる。」とあります。遅くとも、16世紀初頭には、阿曽の鋳物師集団は、梵鐘や五升鍋(もちろんこれだけではないでしょう)を通して密接な関係があったことがわかります。

平成十九年度特別展 吉備津神社 岡山県立博物館 40 梵鐘 より

平成十九年度特別展 吉備津神社 岡山県立博物館 91 鉄釜(御釜殿鳴釜) より (天和のものと思われると注記されています。)

 

 また、象徴的な緊密な関係といえば、近世の御釜殿の釜を阿曽の鋳物師が約60年毎に寄進したことが中金屋に伝わる「御釜鋳替奉納覚」からわかります。最初は天和元年(1681)、元禄9年(1697)、宝永6年(1710)、寛政2年(1790)との記録があり、その後は嘉永5年(1852)、大正9年(1920)で最後になったようです。

■吉備津神社の鉄製常夜灯(灯籠)

 ネットで偶然に見つけた吉備津神社の灯籠の絵葉書が、阿曽の鋳物灯籠に非常によく似ていることに気づきました。実は「平成十九年度特別展 吉備津神社 岡山県立博物館 6 吉備津神社境内図(明治四年)」にもあることに気づいていました。絵葉書が見つかったことで、よりはっきりしてきました。

 吉備津神社の灯籠は、太平洋戦争で供出されたようで、今はありません。

阿曽の鋳物灯籠は供出を免れたのでしょうか。また、作者はいずれも阿曽の鋳物師なのでしょうか。

平成十九年度特別展 吉備津神社 岡山県立博物館 6 吉備津神社境内図(明治四年) より

●西金屋跡の調査について
 横田さんの地元機関紙「然」(2006年秋 Vol.09 「特集 阿曽の鋳物(Ⅱ)」)によりますと、この年の6月に半月かけて総社市教育委員会の発掘調査がありました。その結果、使用済みの溶解炉の炉壁とともに18世紀中葉(1750年ごろ)のすり鉢が出てきたようです。現在、埋蔵文化的包蔵地として認定されています。(昭和33年の火災の後、廃業。)

 桜川とその右岸の旧西金屋跡地付近です。


補足:矢喰神社

寺社天保録によると、
◯田中村の項に
「産土神矢喰天神宮 社地は高塚村といえども田中長田両村の産神なり」とあります。
社僧は新福寺です。
◯高塚村の項に
「矢喰天神社地は此の村の内なりといえども田中村に属す」とあります。
 また、高塚にある天神宮は、高塚・門前・小山・福崎・三手・下土田六ヶ村の産社とあります。
ちなみに、社僧は三手村の鏡善寺です。生石神社に合祀されています。

備中誌によると
◯福崎村の項に
 「吉備津彦命鬼の城の賊を退治し給ハんとて中山より矢を放ち給ふに賊も又矢を放ちて其の矢途中にて喰合落たる所を矢喰の宮というよし俗説にいへり覚束なし矢喰宮ハ天満宮を祀りし也」とある。

神社庁によると
◯矢喰神社
 矢喰天神社(ヤグイテンジンジャ)通称名は矢喰宮とある。(蔡神の記載はありません。)

(ネット情報参考)
・天満宮
 天満宮は「天神」(てんじん)、「天神さま」「天神さん」とも呼ばれる。社名は、天満神社(てんまんじんじゃ)、祭神の生前の名前から菅原神社(すがわらじんじゃ)、天神を祀ることから天神社(てんじんしゃ)などとなっていることもあり、また、鎮座地の地名を冠していることもある。ただし、「天神社」については、
天津神を祀る神社という意味のものもあり、これは菅原道真とは関係がない。

・「矢喰の岩」
 岡山県自然保護条例(昭和46年12月21日岡山県条例第63号)に基づき、郷土記念物として昭和55年 3月28日に指定された。
平成6年度には、矢喰の岩公園として拡張整備されている。