岩屋物語随想


岩屋物語(三つの縁起)

「岩屋物語」とは

 ここでいう「岩屋物語(以降、本書と記す)」とは、「岩屋物語」「明和三丙戌季春上浣 鳥羽義助(占春亭久治)」と記された江戸時代中期(1767年)に書かれた「くずし字による読み下し文」です。原本に近いものは、現在西阿曽の延壽院に写本が保管されています。以前にその複写と思われる古文書を古文書の勉強会で入手しています。

 本書は、本書の末尾にも記されているように「舊き縁起」を基に記されたことが判ります。

 なお、この縁起とは、「岩屋山岩屋寺、東塔院」の縁起のことです。


 

岩屋物語(三つの縁起)

「岩屋物語」を始めるにあたって、その原本となる縁起を大きく三つに分類して紹介していきます。

 岩屋の縁起について記された史書、あるいは古文書は少なくはありません。重複引用されていたり追記されていたりと、どれが原本なのか推察することは難しいものがあります。

 本稿では、記録された時代順に大きく三つに分けました。

 

・岩屋寺記(岩屋山縁起) 寺社改帳(萱原家旧蔵文書) 総社市史 近世 史料編

・岩屋山縁起       木下㒶定撰 吉備郡史上巻

・岩屋物語 上      鳥羽義助(占春亭久治) 岩屋山延壽院蔵

 

■各縁起とその記述内容の包含関係について

 本稿の「岩屋物語」としては、④岩屋物語(上 )を主題としますが、関連する史料についても記しました。

■参考史料

 

●総社市史 近世 史料編(総社市史編さん委員会)

 ②P941「萱原家旧蔵文書」の奥坂村 岩屋山縁起

●吉備郡史 上巻(永山卯三郎編集)

 ①P912「○宥心法印岩屋寺記」の項

 ③P915「○岩屋山縁起」の項

●延壽院蔵(くずし字)(写し)

 ④岩屋物語 上

●総社市史 近世 史料編(総社市史編さん委員会)

 ④P1068 「寺院縁起」の項 二 岩屋山縁起

 

(補足)

・白文(漢字のみ) 訓点(返り点・送り仮名・句読点など)のない文。

・訓読文(くんどくぶん) 白文に訓点(返り点・送り仮名・句読点など)をつけた文。

・書き下し文(かきくだしぶん) 訓点に従って、漢字かな交じりで書いた日本文。

参考史料

1.「岩屋物語(くずし字版)」

 ・延壽院蔵 古集亭久治(読み下し文のくずし字) 明和三年(1766)

2.「総社市史 近世 史料編」

 ・p945 東塔院法印宥心 岩屋山縁起(訓読文・返り点、送りかな)寛正三年(1462)

 ・p1068 二、岩屋山縁起(訓読文・返り点)(占春亭久治)

3.「吉備郡史 上巻」(永山卯三郎編集)

 ・P912 ○宥心法印岩屋寺記 東塔院法印宥心書之 寛正三年(1462)(注)2.とほぼ同じ。

 ・P915 ○岩屋山縁起 木下肥後守豊臣定撰(訓読文・返り点) 亨保六年(1721)

 


参考史料

1.岩屋山縁起:寺社改帳 1685年

 「総社市史 近世 史料」(萱原家旧蔵文書)賀陽郡・上房郡寺社改帳(抜粋)の中に奥坂村の項があり、その中で「岩屋山縁起」として掲載されています。

 特徴は、元となった東塔院法印宥心の遺した文書がはっきり判り、なお、訓読文(漢文ですが返り点や送り仮名がつけられています)です。翻刻されたもので非常に読みやすくなっています。

 本史料は、足守藩が貞享二年(1685)に領内47ヵ村の寺社について調査した改帳とされています。(解説に追記)

 なお、宥心の遺した部分は、本史料の中で「干時寛正三年(1462)三月三日東塔院法印宥心書之」と記されていることから判ります。

 

2.岩屋山縁起:木下㒶定撰 1721年

 「吉備郡史上巻(永山卯三郎編集)」第二十七章 報恩大師と山上伽藍 新山 の項に「○岩屋山縁起 木下肥後守豐臣公定撰」として掲載されています。

 (注)目次には「新山岩屋寺」とあります。公定(原本記載)は㒶定が正しい。

 この前の項には「○宥心法印岩屋寺記」として、1.の岩屋山縁起(萱原家旧蔵文書)に、ほぼ等々の記載もあります。

 これは白文(漢文)です。ほとんど読めません。

 なお、岩屋山縁起(木下㒶定撰)では、引用した宥心の記した部分は明示はされませんが内容から明らかになります。

 あとがきには㒶定自身が追記したものがあります。

 最期に「亨保六年(1721)辛丑孟夏穀旦 備陽足守縣主峯豊公定謹記」とあります。

 これも白文(漢文)です。ほとんど読めません。

 

3.岩屋物語:鳥羽義助 1766年

 初めて知ったのは岩屋山延寿院蔵の書き下し文(くずし字)の「岩屋物語」でした。

古文書のくずし字を学び始めて間もないときで、翻刻には苦労しました。

 「総社市史 近世 史料編」(付録 寺院縁起)に「岩屋山縁起」この翻刻が掲載されていました。

 そこで初めて「占春亭」を「古集亭」と翻刻を誤っていたことに気づきました。

 本稿の「岩屋物語」としては、このくずし字の延壽院蔵の「岩屋物語」を出発点として進めていきたいと思います。

 

■同時代参考

・応仁元年(1467)~文明九年(1478):応仁の乱

・文明十一年(1479):穴観音 種子十三仏(周歓)

・慶長十二年(1608):毘沙門堂建立

・延寶八年(1680):御室末寺(真言宗に)

・天和三年(1683):毘沙門堂建立

・貞享元年(1684):穴観音阿弥陀供養石

・亨保六年(1721):窟山記(岩屋山縁起)御寄納、備中国大洪水

・亨保十七年(1732):亨保の大飢饉(中四国・九州・瀬戸内海沿岸 ウンカ等害虫被害)

・寶暦六年(1755):三十三所安置(岩屋三十三観音)、石地蔵 河内谷

 


岩屋物語(あらすじ)

岩屋物語(くずし字版)のあらすじ 岩屋山延壽院蔵 

 岩屋物語(くずし字版)を理解り易くするため、小見出しに分けて、現代語訳風に要約してみました。

 

 1.道教の入山(多聞天の御堂)

 2.禪通大師の入山(禪通大師の岩屋山東塔院)

 3.大蛇退治と法難

 4.その後(江戸初期)

 5.あとがき

 

1.道教の入山

 岩屋山は万民敬愛する霊場である。

 三十七代孝徳天皇(645-654在位)のとき。下野国圓井の道教が全国を巡行中に見た夢の老翁のお告げにより、この山に喜び勇んで登った。お告げとは、「北方の高い嶺に庵を結び、大願を遂げなさい。私は多聞天である。佛法を擁護し、あらゆる人々を救おうとするあなたの誠の志を感じるので、益々願力を強く励みなさい。」多聞天に仕える童子の導きで、いわの洞に到着した。これが岩屋山である。ここで経を読み仏の御名を称えていた。あるとき三日三夜、山谷が鳴動して光輝いた。そこには僵木があり、蟲喰の文字(多聞天となり一切衆生を済度せん)があった。それを尊く思い、多聞天の清容を彫刻し御堂に安置し、佛法守護の本尊と敬った。道教は信心堅固で歳を重ね、安らかに入寂した。

*「多聞天」:金光明経・金光明最勝王経に出現する。独尊としては毘沙門天である。

 

2.禪通大師の入山 

 第四十ニ代文武天皇(697-707在位)が見た夢に、備中国岩屋山の沙門(老僧)が、王子に生まれると奏し光り輝いて消えた。皇后が身ごもり、三条左大臣が調べると、岩屋山での道教のありさま入寂の日までその夢と同じで、太子も誕生した。

 太子が七歳の春、右手をあげ西方を指した。これを吉祥として、太子の岩屋山への啓行の奇瑞とした。血吸川のみかど(御門)で初めて物言われて、御詠歌があった。本山(岩屋山)に登る時、六人の僧が現れて岩屋山へ案内した。一人の僧は和歌を献上した。僧が遽然と消えたところは、六道の能化・地蔵菩薩、鎮守六所権現であり、いま菩薩坂という。

 帝は数々の奇瑞を聞き、筑前守家定を奉行にし、二十八区寺数百十有四軒の伽藍となった。皇子の寓居(住まい)は道教の庵跡であり、本山の名より岩屋と号し、東塔院ともいった。禅通大師その人である。寺田は三百町あり、毎歳三月三日大會を勅使のもとにおこない、今は毎歳、五院の衆徒が如法経の會を務めている。天平勝宝八年(756)禅通大師七十歳で入滅した。

 

3.大蛇退治と法難

 かつて、正歴年中(990-995)に大蛇が人々を悩ました。偶人をつくり、その内に炮薬や毒石を込め鐘木を持たせ鐘楼に孤立させた。巨蛇は人と思い呑み込んだ。腹が熱なり口から猛火を吐き、その炎が草茅に燃え広がり、諸堂寺院を焦土にし、怒り狂って山を動かし谷を穿ち、池の堤を破って海原へ奔り去った。

 その後、善快大師が再興したが、文治(1185-1189)の頃、法難で消失した。

 その後、宥善法印が諸堂を建立したが、兵乱のため再び焼けた。

*平家方の妹尾太郎兼廉が板倉付近で戦死した寿永3年(1183)直後のことである。

 

>>ここまでが東塔院法印宥心の「岩屋寺記」寛正3年(1462)の内容である。

 

4.その後(江戸初期)

 慶長十二年(1607)になって、小宇を建てたのが今の多聞天の御堂(毘沙門堂)である。その時、五山あって、上足守村慈尊院、阿曽村延壽院、同村岩本坊(金福院)、上土田蓮乗坊(弥勒院)、観音院である。

 

>>ここまでが木下肥後守豊臣定撰「岩屋山縁起」亨保6年(1721)の内容である。

 

5.あとがき

 筆者の感想と書き残す理由を、あとがきとして、真字(漢字)を仮名にして童蒙(子供達)のため読み易くし、繪圖を加えたと記している。

*あとがきは、木下肥後守豊臣定撰「岩屋山縁起」とこの「岩屋物語」では異なっている。

 

>>「岩屋物語」はここで終わり、最後の署名は、「明和三年(1766)占春亭久治(鳥羽義介)」である。

 

補注

 *「みかど(御門)」は、西阿曽新池の対岸の現在の小字名でもある。

 *如法経は、法華経を写経すること。(大辞林第3版)

 *六道の能化は、六道の巷に現れ衆生を教化し救う地蔵菩薩のこと。(デジタル大辞泉)

 *禪通大師は史書により「善通大師」とも記されている。