岩屋物語随想


岩屋物語(穴観音と文英石仏)

岩屋物語(穴観音と文英石仏)

 

 奥坂穴観音には、境内の西側の奥まったところに、一体の文英石仏があります。

改めて、『僧文英と石仏(林信男)』を読み直して、新たな気づきがあり、まとめてみようと思います。本文中の引用は、断りのないもの以外、全て前記の書籍(以降「引用本」と記します。)になります。

「」内が引用です。文英石仏には文英作でないものも含み、文英様石仏とも呼ばれています。

 

 ご存知のとおり、文英石仏は「岡山平野の中央部、吉井川以西、高梁川以東の古い村々の辻や民家の裏、小祠や墓所の一隅、あるいは寺域の中に様式を同じくする素朴な石仏が広く分布している・・・」「その総数は現在百五十体を超えて確認され、その独特のスタイルは岡山県下以外にはその類例がまったく知られていない吉備固有の石仏群である。」と引用本に根本修氏が寄稿しています。

 文英石仏のお姿は、一度で目に焼き付けられるような、簡素・簡潔なものになっています。

これは、即座に、木像の円空仏を思い出すほど、広く庶民の生活に深く根付くものに感じました。更に、これは文英、円空の「あらゆる人々にその思想を広めたい、知ってもらいたい」という強い意志を感じることができます。

 

 文英石仏に刻まれた年代は、「天文(1533)、・・・・天正(1582)に至る約50年で」あり、「江戸末期から、明治、大正、昭和、現在も城址(備中高松城)付近から出土する石仏」「城郭の拡張工事に捨て石として放り込んでいる。」また、「「半砕されて上部がなく」と城址付近では、破却された様子から「これは、花房による宗教政策の結果である。」と。花房は日蓮宗を深く信仰していました。

 また、僧文英については、真福寺墓地合掌仏に「念仏講文英 天文四年(1535)」とあり、念仏の講として庶民への布教活動を開始し、持宝院十一面観音石仏に「福成寺文英 天文十四年(1552)」とあることから、当時は福成寺(平山福成寺、「宝暦年間に足守領の守福寺へ移され、現在は報恩禅寺の管理」)に属していたものと思われます。

 

 貞永元年(1232)に鈍庵慧總によって禅寺に改められ、その後、勅願寺となり発展した井山宝福寺は、一時は塔頭・学院55、末寺300寺を数えるほどの巨刹となり隆盛を誇りました。文英は当時の末寺の多くを訪れたことと思われます。しかし、井山宝福寺は備中兵乱のため、天正三年(1575)には三重塔を残し伽藍のことごとくを戦火により失い、そのような時と場所で文英は活動していました。備中は特に大内、毛利、尼子、宇喜多、三村氏との混沌とした覇権の大きな時代の流れに巻き込まれていました。

 

 さて、奥坂穴観音の文英石仏については、引用本には記載されていません。

足守領になった奥坂の文英石仏は破却を免れて、現在もその素朴な姿を残しています。

 現在奥坂穴観音の境内にあることから、奥坂穴観音は文英の活動期にはすでに存在していたことが推察できます。近くの墓地一体、もう一体は不明になっています。さらに、隣の久米地区にも二体あります。(これが最も西に存在する文英石仏です。)

 奥坂穴観音の文英石仏は、かすかに錫杖が見えており、延命石仏(延命地蔵)のようです。

また、「高松地区に於いては延命石仏が最も多く造立されている。」ことより、戦乱の世を庶民が心寄せた延命地蔵を僧文英は多く残したものと感慨深いものがあります。

 

2018年12月18日

鬼ノ城山麓にて

 

西尾隆明


(注)「延命地蔵」について

 延命地蔵は偽経の「仏説延命地蔵菩薩経」で説かれた菩薩で、そこには「右膝を曲して擘(ひぢ)をたて掌(たなごころ)をもて耳をうけ、左膝を申下(しんげ)して手に錫杖(しゃくじょう)持し・・・」と書かれており、文英石仏にはその姿はありません。では、なぜ文英石仏に延命地蔵と名付けているのかはわかりませんが、引用文に寄稿している藤井駿氏がそう呼んでいます。時代背景からは「延命地蔵」が相応しいのですが、釈然とはしていません。参考に「延命地蔵」の写真をネットから以下に引用してみました。ただ、この姿は珍しく、多いのは文英石仏の姿です。

 

 

加古川市志方町 長楽寺 延命子安地蔵菩薩

 


資料写真

1.奥坂穴観音の文英石仏と板谷家墓地の文英石仏    

2.久米の文英石仏


3.参考文献

 

・「僧文英と石仏」 平成十五年 四月発行 編集者 林 信男