岩屋物語随想


岩屋物語(岩屋とは)

総社市奥坂の地理的範囲と史跡

 「岩屋」を紹介する前に岩屋は「総社市奥坂」にあります。

 そして、奥坂には、岩屋をはじめ、鬼城山、鬼ノ城ゴルフ倶楽部、阿宗神社から北は重田池を含む広い範囲になります。

特に、鬼城山や鬼ノ城ゴルフ倶楽部が「奥坂」であることに気づいている人は多くないでしょう。

さらに、阿宗神社も奥坂にあります。阿曽と思われている人が多いのではないでしょうか。

 ちなみに「阿宗神社」は、奥坂、西阿曽、東阿曽の産土社です。

 本稿は、「岩屋物語」として、岩屋を主題として紹介していきます。

 

史跡一覧と報告書

 

①岩屋

②奥坂穴観音

鬼城山

 「鬼城山 国指定史跡鬼城山環境整備事業報告」 2011月3日 岡山県総社市教育委員会

④阿宗神社

⑤奥坂製鉄遺跡群

 「総社市埋蔵文化財発掘調査報告書15」1999年 総社市教育委員会

⑥古墳群(穴観音古墳群、かむろ山古墳群、阿弥陀ヶ原古墳群、慶覚古墳群)

 

●近郊の史跡

 

①随庵古墳 5世紀後葉

 「総社市随庵古墳」1965年 総社市教育委員会

②新山 

③阿曽の鋳物師


岩屋について

 現在の岩屋は、総社市奥坂の地区名(小字の集合)となっています。

 

 岡山縣通史上・下編(永山卯三郎著)の初見は「主基田卜定及大嘗祭風俗歌」として、「いはや山」5例が掲載されています。

 時代は946年から1222年までです。山名と地区名が同じです。

 同著の「山中幸盛の最後」において、「中島兵乱記」によるとして、「・・・岩屋の大蛇佛法を聴聞仕り、・・」とあり、1578年頃にも岩屋と呼ばれたようです。

 また、「備中誌賀陽郡巻之五」奥坂村の項には、「岩屋山神社 延喜式に見へざれとも国史ニ載られたり」とあり、この国史がなにかわかりませんが、岩屋山観音寺の名が見えることより寺の山号でもあったようです。


 その他、この「岩屋」に関する数少ない資料(史書・古文書等)に基づく興味深い『岩屋物語』にしたいと思います。


岩屋のはじまり   岩屋の初見

 「岩屋(いわや)」は、総社市奥坂の地区名で岩屋地区があります。現地籍図にも小字名「岩屋」があります。古来、「いはややま」「岩屋山」「岩屋寺」「磐山」などとさまざまに記されています。

 以下に、その歴史を知るための文献の中から初見について、列記します。

 

1.主な参考史書

・大日本地名辞書(吉田東伍) 磐屋:天平二年(730)

・大嘗會歌集         いはや:天慶九年(946)

・中国兵乱記(中島元行)   岩屋:天正六年(1578)

・寺社改帳(奥坂村)     岩屋:貞享二年(1685)

・寺社天保録(奥坂村)    窟山:亨保六年(1721)

 

(補足)

 文献参照において、インターネット上で調べられる古典の原書が多くあります。

 国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp)です。

 


参考史料


大日本地名辞書(吉田東伍) 磐屋:天平二年(730)

参考:大日本地名辞書(吉田東伍)の磐屋、石屋、岩屋、いはや

 

 はじめに、岩屋の地名に関して、最も有名な大日本地名辞書(吉田東伍)を参照してみました。ここで判ることは、正倉院文書(天平二年(730))に「賀夜郡阿蘇郷、宗部里磐屋里」とある。この磐屋が該当するものと思われます。(この正倉院文書の原典は未確認です。)

 その後の和名抄(931~938ごろの成立)には、「賀夜郡阿宗郷、訓安曾」とあり、「いわや」はありません。

 

大日本地名辞書(吉田東伍)の「岩屋」 備中国阿宗郷の項

阿宗郷 和名抄、賀夜郡阿宗郡、訓安曾。◯今阿曾(アソ)村

    即是なり、(阿曾蓮は姓氏録に尾張氏同祖とあ

り、其族黨の移住したる地にや)足守の南西にして、久

米、奥坂、黒尾等の大字之に屬す。正倉院文書「天平二

年(730)、賀夜郡阿蘇郷、宗部里磐屋里」と見ゆ、磐屋は奥坂(オクサカ)

の舊名なるへし、鬼之城(キノジャウ)と呼ふ窟あり。

 千早ふる神も君をぞ待けらしいはやの山のその戸ひら

 けり、(大嘗會歌集、天慶九年(946)主基方、備中國いはや山)

名勝考云、石屋山は奥坂村に在り、今は其社聞えず、

或人のいへらく、黒尾山も岩屋山の中なれば 其山の山

王宮は即岩屋神なるべしと。◯人類學會雑志云、久米よ

り四十町、奥坂村にさかに達し、此所にて鬼の釜と云も

の(直径六尺深四尺厚さ一寸鐵製)を見、更に登ること二

十町にして、鬼の雪隠一名鬼の岩屋と云もの、(大石の重

なりたるもの人工を加へたる跡見えず)及び鬼の石垣と

云ふもの(是は故意に積みしが如し)を見る、土俗之を鬼

之城と呼ふ。

 

改版では以下が追加されている。

補【岩屋山社】賀陽郡◯備中名勝考[重出]此山、賀陽

 郡奥坂村に在り、今は其社聞えず、ある人のいへらく、

 黒尾村の新山は岩屋山の内なれば、其山の山王宮これ

 岩屋山社なるべしといへり、大嘗会和歌集に、村上天

 皇天慶九年主基備中国風俗神楽歌いはや山、

  ちはやふる神も君をぞ侍けらしいはや山のその戸

  ひらけり。

 ◯阿曽村大字奥坂。


参考史料:岡山縣通史 上編(永山卯三郎編集)の「いはや」

 次は、「大嘗會歌集、天慶九年(946)主基方、備中國いはや山」です。岡山縣通史 上編(永山卯三郎編集 P598)により、まとめると、以下のように、貞應元年(1222)までの記載があります。

 

○大嘗祭和歌集云 村上天皇天慶九年(946) 主基國中國風俗神歌

いはや山 千早振神も君をぞ待けらしいはやの山のその戸開けり

 

○後一条天皇長和五年(1016) 備中國下道郡 善滋為政

いはや山 過にけん程をば知らず行末も久しかるべきいはや山哉

 

○大嘗会和歌集云 後三條院・治暦四年(1068) 主基方備中國英賀郡 藤原経衡

いわや山 うごきなき千代をぞ祈るいはや山とる榊葉の色かへずして

 

○高倉天皇 仁安三年・嘉應元年(1169) 主基方備中國賀夜郡 藤原清輔朝臣

いはや山 神代より天のおしての動きなきしるしに立てるいはや山かも

 

○後堀河天皇 貞應元年(1222) 大嘗會、主基方備中國 権中納言頼資

いはや山 深みどり玉松が枝の千代までもいはやの山ぞうごかさるべき

 

参考史料:その他の「岩屋」「磐山」

 16世紀戦国時代に入ると、「中国兵乱記」の「山中鹿之助被誅事」の項に、天正六年(1578)に備中松山城へ連行される途中、経山城主中島大炊助(正行)の饗応を受けた際、以下のように語ったと記されている。その中に「・・・岩屋ノ大蛇仏法ヲ聴聞仕・・・・」とあります。

そして、江戸時代初期には、奥坂村が登場し、足守藩木下㒶定の撰した「岩屋山縁起」が遺されています。それは、寺社天保録によると、「窟山記」として亨保六年(1721)に岩屋山五ヶ寺の共同管理になっています。吉備郡史上巻(永山卯三郎編集)では「岩屋山縁起」となっている。


参考史料:中国兵乱記(備中集成志)の「岩屋」

 『備中集成志』に掲載された中国兵乱記の「山中鹿之助被誅事」に、天正六年(1578)上月城で毛利軍に敗れ、毛利輝元の在陣する備中松山城へ連行される山中幸盛(鹿之助)が経山の麓で中嶋大炊助の饗応を受けた際、語ったことが記載されている。以下該当部の一部を引用する。

 

「先年此邊へ大賀駿河守、尼子式部出陣之時此新山迄人数差遣候由、摂津國勝尾山二階堂ニテ善導大師を法然上人(2)夢中ノ有對面。然時備中國新山ヘ善導大師ヲ勸請仕、千軒ノ寺ヲ建立仕、郷民ニ佛道ヲ進給時朝夕粥ヲ支度スル釜今有。岩屋ノ大蛇佛法ヲ聴聞仕毘沙門ト現ジ給事、殊勝ノ品々山王權現ヲ経山鎭守ト崇、新山寺千軒佛經讀誦之經塚アレバ經山ト名附無双ノ城地也。此所ニテ戰死ノ武士ハ佛道之場ニ入同事也ト懇ニ語リ給。」

 

 先年とは、元亀2年(1571)4月、宇喜多・尼子勢の経山城攻めのことのようで、大賀駿河守は石見の針藻城の大賀道豊、尼子式部は尼子勝久と推定する説もある(1)。この時、経山城主・中島大炊介の策略により尼子軍は百人以上も討取られたようだ。その記憶が鮮明な鹿之助の弔いの気持ちが「此所ニテ戰死ノ武士ハ佛道之場ニ入同事也」といわせたのであろう。

 

 この中で特筆すべきは「岩屋ノ大蛇佛法ヲ聴聞仕毘沙門ト現ジ給事」であり、岩屋で大蛇が佛法により毘沙門天になったとの伝承である。これは、寛正3年(1462)に東塔院宥心法印が記した「岩屋寺記」に基づき、さらに「千軒ノ寺」として新山と岩屋には大伽藍があったと伝わっていたと考えられる。

 

(1)http://saigokunoyamajiro.blogspot.jp/2013/06/blog-post.html

(2)法然上人 長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年)

 

 「勝尾山二階堂ニテ善導大師を法然上人夢中ノ有對面」は記録にあるが、「備中國新山ヘ善導大師ヲ勸請仕、千軒ノ寺ヲ建立仕」は俄には信じがたい。