岩屋物語(大蛇考)2016年5月18日起稿-2017年2月13日完成
1.岩屋物語とは
ここでいう「岩屋物語(以降、本書と記す)」とは、最後に「明和三丙戌季春上浣 占春亭久治」と記された江戸時代中期(1767年)鳥羽義助によって書かれた「岩屋物語」と題された「くずし字による読み下し文」である。原本に近いものは、現在西阿曽の延壽院に保管されている。以前にその複写と思われる古文書を古文書の勉強会でも入手している。
本書は、本書の末尾にも記されているように「舊き縁起」を基に記されたことが判る。
以下に一部を引用する。なお、この縁起とは、「岩屋山岩屋寺、東塔院」の縁起のことである。
「・・・是を以て のべしるすところ 漢文(もろこしのぶん)
真字(しんじ)にして賢者(かしこきもの)ごとに感察(かんじみる)の舊(ふる)き
縁起あり そのおもむきを 假名文字(かなもじ)に
うつし 童蒙(わらんべ)のため 読知こと やすきに
いたらしめんことを ある人のもとめに したがひ
かいつけ侍りぬれと・・・」
即ち、漢字で書かれた古い縁起をかな文字にして、子供にも読み聞かし易くするため、ある人に頼まれて書いた、ようである。
さらに、「舊き縁起」とは、吉備郡史 上巻(永山卯三郎編集)の第二十七章報恩大師と山上伽藍の「新山」の項によれば、以下の3つの縁起ではないかと想定される。
・延長元年(923) 圓會僧正撰 備中國賀陽郡生石庄鬼城縁起(鬼城縁起を代表)
・寛正三年(1462) 宥心法印撰 岩屋寺記
・亨保六年(1721) 木下㒶定撰 岩屋山縁起
鬼城縁起は主に吉備津神社の縁起について語られ、新山との関係を含む「温羅伝説」と密接に関わっている。後者2つは、岩屋(新山と同列一体で語られることが多いが、ここではひとまず区別している)の岩屋寺・東塔院の縁起が語られている。内容もほぼ同一で、岩屋山縁起は「古傳」として岩屋寺記を元に書かれている事がわかる。ここでは鬼城縁起については、語らない。
宥心法印は、「東塔院法印宥心書之」と最後に記しているように岩屋の岩屋山東塔院の法印である。木下㒶定は備中国足守藩第5代藩主であり、岩屋は当時足守藩であった。
2017年2月13日起稿
2.大蛇の記憶
本書で「大蛇」が現れるのは、岩屋山の栄枯盛衰が語られる後半に入ってである。
以下に長くなるが該当するところを引用する。
曾て聞正暦年中に 大蛇あり
時に往来の人を呑み民を惱 是において人々
評議して これを巧 偶人を作り その内に
種々の炮薬を實 いろいろの毒石をこめ
鐘木 をもたせ 鐘楼に孤立しむ 巨蛇 真の
人かとおもひ一口に呑 須臾して腹 熱に
なやまされ 口に猛火を吐 その焔 熾にして
辺りなる草茅に 燃つき 諸堂寺院一時
に焦土となりぬ 既にして大蛇 激をたて
怒 をなし 山を動し 谷を穿 池の堤を
劈 て 海原に奔り去り侍りぬ
即ち、正暦(しょうりゃく)年中(990-995年)に大蛇がいて、民を悩ますので炮烙や毒石を入れた偶人(ひとがた)をつくり、大蛇に食べさせたところ、猛火を吐き諸堂寺院を一時に焦土とし、山を動かし、谷を穿ち、池の堤を劈いて(決壊して)海原に奔り去った、という。
災害の視点で読み直すと、大蛇が山を動かし、谷を穿ち、池の堤を決壊して、海に流れ込んだともとれるのである。
今風に言うと、地震が発生し土石流が谷筋を流れ、池の堤を決壊して、海岸にまで到達したと。
災害の記憶が大蛇の伝承になって記録されたのかも知れません。
2017年2月13日起稿
3.大蛇地名と災害
災害の記憶が大蛇の伝承になっているのではと考えた人もいた。
郷土の作家(先生)でもある古文書に詳しい、磯田道史氏である。
以下に磯田道史著「天災から日本史を読みなおす」の「第3章「蛇落地」に建てられた団地」を引用する。
2014年に発生した広島市安佐南区八木などでの大規模土砂崩れについて記されている。
この地の領主が「自然に勝てる」と思いはじめたのは、戦国時代のことであったらしい。前近代には土砂崩れは「蛇(じゃ)崩れ」「蛇落(じゃらく)」などといい、大蛇の出現になぞらえられた。一五三二(享禄五)年の春「八木村の内、阿生(あぶ)(阿武)山の中迫(なかさこ)という所に、大蛇が現れて往来を悩乱」したが、香川勝雄という十五人力の武士がこの大蛇を斬って退治した。そのように、八木を治めた香川一族の子孫が著した『陰徳太平記(いんとくたいへいき)』に自慢げに書いてある。・・・・・
・・上楽寺(じょうらくじ)(上楽地)という字がある。この地にある観音堂が「蛇落地観世音菩薩堂」とよばれ、さらに近所に「蛇王池大蛇霊発菩薩心妙塔」と刻まれた碑が立っていることだ。・・上楽寺は元来「蛇落地」から名付けられた可能性を考えなければならぬ。・・・・・
まさに、災害の記憶を永久に子孫に遺すための深謀遠慮である。小字名は、大地に刻まれた歴史の痕跡である。
2017年2月13日起稿
岩屋物語(大蛇と災害) ~大蛇は土石流の教訓か~
岩屋物語(くずし字)に記されている「大蛇・巨蛇」のことは何を言い遺したいのだろうかと気になってきた.
「・・・大蛇 激をたて怒 をなし 山を動し 谷を穿 池の堤を劈 て 海原に奔り去り侍りぬ・・・」
岩屋物語(大蛇考)2016年5月18日起稿-2017年2月13日完成
4.小字名に残る池の跡地
岩屋物語の大蛇についてもう一つの気になるところがある。それは、「谷を穿
池の堤を劈 て 海原に奔り去り」である。谷を穿ち(削り流し)ながら、池の堤を劈いて(決壊して)海へ奔り去り(勢い良く流入した)ということのようだ。
岩屋物語の舞台である岩屋には、当然大きな谷筋がある。今は、岩屋の北方にある重田池を源流とする血吸川が流れている。そして、付近には、岩屋の東方に、明法寺池と水呑池がある。しかし、「蛇の居たる穴」といわれた現「鬼の差上げ岩」から大蛇が谷を穿いて海に奔り去る途中には、現在は池も堤もない。ふと以前岩屋の小字名が気になり、切絵図を入手していたことを思い出し、更に範囲を広げた区域の小字名を知るために、法務局から再度国土調査以前の切絵図を入手した。
現在は鬼ノ城の北側のビジターセンターから岩屋方面への道筋と阿弥陀が原から鬼ノ城北側に登る岩屋道が合流したところで少し平坦で田や畑や養鶏場の平坦な場所があることが判る。
驚いたことに、その周辺の小字名に、「九十七番字大池勘定」「九十五大池」「九十六大池」「九十四番字小池」があったのです。
池だったところが池でなくなって(池は浚渫しないと埋まってしまう)、小字名に「池」を含む名称、田になっているのか「池田」が多いが、として遺っている。身近では奥坂の西山に「池田」の小字名がある。
とすると、大蛇の伝承が残るような、池の堤を決壊させるような大きな災害(蛇崩)があったことも納得しそうである。
2017年2月13日起稿
この大蛇とは、なんの比喩であろうか。
そんな折、磯田道史氏の「天災から日本史を読みなおす」から、ひょっとして何らかの災害の言い伝えではないかと思えてきた。
まず、「天災から・・・・」の要旨を記して(後述の参照文献)みる。
第3章「蛇落地」に建てられた団地」を引用する。2014年に発生した広島市安佐南区八木などでの大規模土砂崩れについて記されている。
この地の領主が「自然に勝てる」と思いはじめたのは、戦国時代のことであったらしい。前近代には土砂崩れは「蛇(じゃ)崩れ」「蛇落(じゃらく)」などといい、大蛇の出現になぞらえられた。一五三二(享禄五)年の春「八木村の内、阿生(あぶ)(阿武)山の中迫(なかさこ)という所に、大蛇が現れて往来を悩乱」したが、香川勝雄という十五人力の武士がこの大蛇を斬って退治した。・・・・・
・・上楽寺(じょうらくじ)(上楽地)という字がある。この地にある観音堂が「蛇落地観世音菩薩堂」とよばれ、さらに近所に「蛇王池大蛇霊発菩薩心妙塔」と刻まれた碑が立っていることだ。・・上楽寺は元来「蛇落地」から名付けられた可能性を考えなければならぬ。・・・・・
さらに、岩屋物語の「大蛇」に気になるところが出てきました。
「山を動し 谷を穿 」までは納得ですが「池の堤を劈いて」となると、この池とはどの池のことであろうか?。
鐘楼があったところは、今の鬼の差し上げ岩の近くであろうし、その下流にはご存知の通り池はありません。今は上流に「重田池」はあります。上流にある池の堤を崩落させることはできません。
地形的に見て、池になりそうな場所は、鬼ノ城ビジターセンターから進んで、右岩屋道と左岩屋休憩所方面へとの合流点です。そこで、切絵図を入手することにしました。
そして、小字名を調べていくと、興味深いことに、「小池」「大池」がありました。
(補足)・赤線は、一般道(岩屋古道)、青線は水(血吸川)を示します。
青線の始まりは、現在の石積み堰堤付近で、その上には、大池、小池等の小字が続いています。
全農畜産サービスのSPF・AIセンターもあります。
・赤い筋は、通称「赤線道」といわれる生活道である。奥坂休憩所からの岩屋へ行く「岩屋道」を示しており、右方の青い線は「血吸川」と思われる。中央左には「百廿二番字重田」の小字名があり、今の重田池の場所と思われる。
この切絵図(地籍図)は、岡山地方法務局倉敷支所から入手した。国土調査以前のものと思われる。
2017年3月7日:追加
小字名「大池・勘定」、「大池」付近と思われるところの写真撮影をしました。