岩屋物語(三十三所と亨保の災害)
岩屋三十三観音の成立
岩屋三十三観音が安置されたのは、『岩屋物語(下)』に、「寶暦六甲子年信心のともがら人々にすすめて三十三所観世音の尊像石仏を安置し奉り」とあることより、寶暦六年(1755)であることがわかる。さらに、その石仏群は近くに併存する石仏群(八十八所)に比べて明らかに大きく、深く彫られている。そして三十三の石仏を岩屋を始点として鬼ノ城周辺から犬墓山経由で配置(大正十三年、十七体を奥坂穴観音霊場に移設)されていることから、当時の奥坂の人々の思い強さが伝わってくる。そして、その理由を考えるようになった。自然災害に起因するのではないか?。
岩屋三十三観音と災害
藤井駿著作の『吉備地方史の研究』に、気になる小論を見つけた。「亨保六年の備中国大洪水について」である。亨保六年は、1721年である。岩屋三十三観音が安置されたのは、鳥羽久治が明和三丙戌季(年)春の『岩屋物語(下)』に、「寶暦六甲子年信心のともがら人々にすすめて三十三所観世音の尊像石仏を安置し奉り」とあることより、寶暦六年は1755年である。この間は、35年である。35年前は遠い昔か、つい最近か、災害の大きさ(記憶の強さ)にも依るだろう。
さて、現在に置き換えて考えてみよう。阪神大震災(1995年(平成7年))から約23年である。今神戸は経済的にはかなり立ち直っているようにみえる。しかし、災害を直接体験した人々の精神的な打撃は癒やされるものではないだろう。30年経っても忘れられないだろう。
もう一度、「亨保六年の備中国大洪水について」に戻ると、この記録は、吉備津宮の「社家」の江国掃部(えくにかもん)が各町村の洪水の状況や被害の程度など、書き残したものである。
別に備前や土佐の記録もあり、西日本一帯が被災した大災害(風害・水害)だったようである。備中については、高梁川の井尻野から左岸数カ所に亘り堤防の決壊、足守川左岸三手村付近の堤防の決壊と広範囲に氾濫が発生していたようだ。さらに、下流にあたる東の吉備津の宮内や南の倉敷の西阿知を含む広範囲が被災しているようだ。
大まかな水の流れは高梁川から現桃太郎線や国道180号線を含む帯状に東に流れ、足守川に三手村付近(現岩崎堰付近)で合流して、更に東に宮内方面に向かっていったと考えられる。三手村付近は、現在岩崎水門があるように、高梁川の湛井堰を取水口とする湛井十二か郷用水路に当たり、砂川、血吸川、前川と総社の北嶺(鬼ノ城山を代表)の莫大な水量を足守川に合流したのであろう。そのため三手村付近の合流一帯の堤防はあっけなく決壊したものと容易に考えつく。
しかし、本記録には、阿曽・奥坂の記録は見当たらない。これは災害がなかったのではなく、記録されていなかっただけと考えられる。想像するに、砂川はもちろん血吸川、またその支流も多く決壊していたであろう。そして、被災者も多くいた。砂で埋もれた田畑を回復するには多くの時間がかかる。その間の生活は今以上に悲惨なものだったと推察する。
ようやく30年以上が経って、生活も安定してきて、30年前の苦しい思い出を仏の姿に変えて、それも観音菩薩という常に寄り添ってくれるありがたい仏、岩屋三十三観音として安置したのだろうと思えてくる。その人々は、鬼ノ城山から見渡せる周囲の30年前の悲惨な災害を記憶にもつ多くの村人だったに違いないと確信するものである。
鬼ノ城山麓にて
西尾隆明
2018年1月27日-2019年8月28日改定
参考文献
■享保6年(1721)の災害記録一覧 (岡山歴史研究会より)
・備前 死者43人、家屋の流壊1,180余軒
・備中 死者47人、家屋の流壊3,180軒。
■『吉備地方史の研究』(藤井駿著)「亨保六年の備中国大洪水について」より
以下の航空図は、iMacのマップ(航空写真)に、本記録から総社平野近辺の被災状況を推定して示したものである。
写真南部の被害も大きかったが割愛した。
「亨保六年の備中国大洪水について」要約
江国掃部(えくにかもん)は、備中吉備津宮の社家としての教養をもち、また「御師(おし)」として備中に多数の旦那や知人がいた。この大洪水も20日ごろになると、峠を越えて人の移動ができるようになり、9月初旬まで、1か月にわたり各町村の洪水の状況や被害の程度を見聞し、「 江国掃部略日記」として書き留めた。この日記を元に藤井駿氏が書き表したものである。
(高梁川総社流域と足守川足守流域、高松、板倉、宮内と足守川下流域について抜粋した。)
特に高梁川流域の酒津からの中洲地域(当時高梁川は酒津で南下して連島東側から水島に抜ける旧河川があった。そのため今の西阿知を中心とした広範囲の被害が大きかったものと思われる。もう一つは、三手を中心として宮内(吉備津)までの足守川旧河川の被害も大きかった。これは、三手付近は高梁川旧東流(湛井十二か郷用水路や国道180号線付近(かなり大まか)と鬼ノ城周辺を水源とする砂川、血吸川や前川と足守川が合流する所で、最も水量が増し提の決壊の恐れの大きい地域であった。
閏7月10日:備中地方で暴風が吹き荒れ、「吉備の中山」では松が160-170本も折れ倒れ、宮内町では人家が20軒あまりも倒壊したが、作物への被害は大したことはなかった。
閏7月15日:前日から雨が止まず、洪水の恐怖が噂されるようになった。正午ころ、足守川に架けられた土橋が10間ほど落ちて町は通交途絶、その下流は洪水との報が入った。日暮れになっても宮内の辺の小河川は増水するばかりで、今度は高梁川の堤の決壊や足守川が賀陽郡三手村(現在の三手)の堤が100間あまり決壊した。
足守川(足守から庭瀬・撫川流域)では、
高松、立田、津寺、加茂、板倉、宮内各村は家屋・田畑の被害は甚大、多くの家が床上まで浸水した。下流の庭瀬、撫川、平野、延友も同様で、ほとんど浸水した。
高梁川(井尻野・川辺・中島)では、
井尻野で、250間ほど堤が切れ、さらに下流の川辺、中島までで、7か所も決壊した。
鍋坂付近の道はほとんど崩れ、槇谷川は荒れ果て、宍粟では、庄屋の家が倉以外すべて流れている。
高梁川(酒津・西阿知)では、酒津の堤が600間に及んで決壊する。西原村の家屋は一瞬にして過半が押し流され、水江村で氾濫し、西原の隣村である西阿知村では戸数360軒のうち、320軒が押し流された。(伝聞)
豪雨から10日以上経て、吉備津宮の裏山「吉備の中山」に登ってみた。眼下に開ける吉備の南部の平野は一面の湖水となっており、ただその湖水の中程に、小丘の松島集落だけが孤島のように浮かんでおり、松島へ通う小舟が見えた。
以上
亨保十七年の大飢饉
もう一つの災害について、
1731年(享保16年)末より天候が悪く、年が明けても悪天候が続いた。
1732年(享保17年)夏、冷夏と害虫により中国・四国・九州地方の西日本各地、中でもとりわけ瀬戸内海沿岸一帯が凶作に見舞われた。
梅雨からの長雨が約二ヶ月間にも及び冷夏をもたらした。このためウンカなどの害虫が稲作に甚大な被害をもたらして蝗害として記録された。
福岡藩内では6万6千あまりの餓死者が出たとされている。
地蔵信仰について
福岡藩における亨保の飢饉と救済信仰ー飢人地蔵祭の成立背景と飢饉をめぐる信仰ーより「・・後に、福岡藩は、亨保の飢饉の餓死者に対して、明和元年(1764)に三十三回忌・天明元年(1781)に五十回忌を行った」とあり、五十年前の飢饉でもその供養を忘れることはなかった。
「おわりに」として「福岡藩における亨保の飢饉からは、藩の飢饉・疫病からの救済を願う信仰や、飢饉や疫病の流行といった情勢下の民衆の信仰と生活を垣間見ることができる。」とある。