一、寺社改帳 貞享二年(1685)総社市史 近世 史料編 萱原家旧蔵文書
「総社市史 近世 史料」(萱原家旧蔵文書)賀陽郡・上房郡寺社改帳(抜粋)の中に奥坂村の項があり、その中で「岩屋山縁起」として掲載されています。
特徴は、元となった東塔院法印宥心の遺した文書がはっきり判り、なお、訓読文(漢文ですが返り点や送り仮名がつけられています)です。翻刻されたもので非常に読みやすくなっています。
本史料は、足守藩が貞享二年(1685)に領内47ヵ村の寺社について調査した改帳とされています。(解説に追記)
なお、宥心の遺した部分は、本史料の中で「干時寛正三年(1462)三月三日東塔院法印宥心書之」と記されていることから判ります。
一、寺社改帳 貞享二年(1685)総社市史 近世 史料編 萱原家旧蔵文書
「総社市史 近世 史料」(萱原家旧蔵文書)賀陽郡・上房郡寺社改帳(抜粋)の中に奥坂村の項があり、その中で「岩屋山縁起」として掲載されています。
特徴は、元となった東塔院法印宥心の遺した文書がはっきり判り、なお、訓読文(漢文ですが返り点や送り仮名がつけられています)です。翻刻されたもので非常に読みやすくなっています。
本史料は、足守藩が貞享二年(1685)に領内47ヵ村の寺社について調査した改帳とされています。(解説に追記)
なお、宥心の遺した部分は、本史料の中で「干時寛正三年(1462)三月三日東塔院法印宥心書之」と記されていることから判ります。
二、寺社天保録(奥坂村:翻刻抜粋)
寺社天保録の奥坂村・穴観音の項に「文明十一年より天保七年迄 参百五十八年二ナル」と記されていることから、天保七年前後の記録であることが判ります。
その中で、木下㒶定撰の岩屋山縁起にかんする記述を抜粋すると以下のようになります。
寺社天保録の奥坂村には、「一、窟山記 御點付 壹巻」の記載があり、これが前に記した寺社改帳の「岩屋山縁起」に相当するものではないかと考えています。
前行には「一、同断(太守御作)窟山記 御自筆一軸 壹筥」とあり、ここでいう「太守」とは木下㒶定公になります。なお、寺社天保録の「奥坂村」全体については「寺社天保録(くずし字と翻刻)」を参照ください。
①亨保二年(1717)に、「桑華蒙求」を寄納
②亨保六年(1721)に、「窟山記」を寄納、さらに御點付「窟山記」も寄納。
③延宝八年(1680)に、「御室宮令旨」 (御室派・真言宗に改める)